2014年4月11日金曜日

どくたら(Dr.)


今から18年前エチオピアで「ドクター」というものをはじめて知った。

1996年3月末、私は逞しく生きるエチオピアの人びとと出会った。首都、アディスアベバから西南130キロほどいったウォルキッテという街から入った農村で、私は農民に手をひかれ、畑をみせてもらっていた。日本でみたことのない作物、土の匂い。全てが新鮮だった。私は、この人たちと寄り添ってなにかをしたい。直観的にそう思った。

私はいったい何ができるのだろう。

ウォルキッテの農村に住み込みながら、家畜の診療をおこなっていた1人の日本人獣医師「野田さん」と出会った。
野田さんは彼らの生活の基盤として欠かすことができない、様々な役割を担う「ウシ」を護る「家畜診療」の仕事を、村に住み込みながらおこなっていた。
畑を耕す、牛耕用のウシは、彼らの生活を支える重要なものであることを、その時に知った。野田さんは、エチオピアの人と寄り添いながら、彼らの大切にしているものを一緒に守りつづける、そんな仕事をしているように思えた。
「ドクターノダ、ドクターノダ」エチオピアの農村の人びとに慕われ、ともに生きる、野田さんという大人に、13歳の私は強く憧れた。

「エチオピアに行くことが目標になっていはいけません、エチオピアで何をするか、考え行動することが重要です。」

憧れの野田さんからもらったこの言葉で、自分のできることは何か、模索する日々が始まった。想いを叶えるためにまずは「私が」学ばないといけない、そんな風に旅の中で考えるようになった。
医者や獣医の「ドクター(医師)」とはべつに「ドクター(博士号)」というものもあることを知った。この国に寄り添って仕事をするには「ドクター」になることは重要であるとを子供ながらに学んだ。まずは野田さんのような「獣医(ドクター)」を目指そうと決意した。13歳のときだった。

様々な人びととの出会いや関係のなかで、「エチオピアの人びとに寄り添って働きたい」という想いは、ゆっくりと育てられてきた。

「ドクター(獣医)」になるという夢は、はかなくも散ってしまったけれども、大学時代は「農」と真剣に向き合う切磋琢磨できる仲間達に恵まれた。ウシの飼養管理や農家の人びととの関わり方も実習を通して学んできた。7年前に大学院に進学し、「アフリカ地域研究」で、まずは「ドクター(博士号)」を目指す研究生活がはじまった。13歳の時に見たエチオピアの農業を、ウシを使って耕す「人びと」を、正しく、深く、理解することから始めたい。フィールドワークに基づくエチオピアの牛耕の研究のスタートだった。はじめて訪れたウォルキッテの街から10キロ首都よりの街、ウォリソ(ギオン)の農村に縁があり調査をはじめた。まずは、そこに暮らす人びとの生活を、全身を使って、時間をかけて正しく理解する、当時の決意を今でも鮮明に思い出す。

憧れの野田さんのように、農村で人びとともに寝食をし、対話を繰り返し、寄り添いながら学ぶ、11年思い描いていた自分は現実のものとなっていた。それにも関わらずエチオピアの農村で自分は何をやっているんだろうという思いを抱くことがあった。夢を抱き、遠いアフリカまでやってきて、苦労のすえ村の人びとに受けれてもらい、言葉を学びながら、生活を手とり足取り学ぶ。それは私自身が希望し、多くの困難を乗り越えながら、ようやくはじめたフィールドワークだったはずなのに。

なかなか理解できない彼らの行動や、自分のわがままなふるまいで迷惑をかけてしまっている申し訳なさで悔しい思いをした。高熱で魘され、虫さされによる痒みで発狂した日々もあった。何かをつかもうとしても、空気ばかり掴んでいるようで、何も形にならない苦しい日が続いた。知識は少しつづ蓄えられていっても、解るということの厳しさ、難しさを全面的に突きつけられた。それでも、あたたかい人びとに支えられ、エチオピア農村の人びととの一緒の時間を積み重ねることができ、そのなかで何かを浮き彫りにし、理解できたときの喜びは言葉にできないほどおおきなものだった。今ふりかえるとフィールドのワークのはじまりとはそのような、苦しみや喜びを乗り越えていく日々だったように思う。

毎年のように日本とエチオピアを調査のために往復し、言葉もしだいに話せるようになり、人びととの付き合いがさらに深まってくると、日本にいるときの自分との違和感を感じるようになる。自分が何者か、よくわからなくなりはじめる。エチオピアで価値観を揺すぶられる強烈な経験を重ね、苦しみながらも、受け入れ、咀嚼し、自分のものにしていくにつれて、新たな自分は形成され、今度は自分が育ってきた社会の生活に疑問が生まれ、いろいろなことがさらによくわからなくなっていく。2つの世界で生きることは、自分の新たなる価値観の創造へ導く力をもっている。それと同時にあらたなる葛藤の世界へ自分を飛び込ます力にもなる。それだけではない。2つの世界のもつ厳しい現実に迫られる。目の前につきつけられる、大きな現実に直面したとき、何もできない自分の未熟さに、どうしようもなく、つぶされそうになることがある。

そんな時もエチオピアの懐は深い。私の気持ちをまっすぐ受け止めてくれる人びとがいる。
「心配ない、できるよ、ゆっくりゆっくり」
性急な答えは求めない、ゆっくりと着実に厳しい状況にも耐えながら生きていく姿勢を学んだ。たんたんと耕すように。
自分の足りない考えを、誤った思考を正すように、心を癒してくれるように、逞しく生きる人びとは、上手に生きる知恵や構えを共有してくれた。

共有の潤滑油ともいえる、「酒」が調査地にはある。
時には奢ってもらい、私も奢り、酒を通じた時間も共有してきた。
酒を瓶で購入すると、年長者に捧げ、まずは祝福の言葉をかけてもらう。

かみさまのご加護がありますように。
偉大な人間になりますように。
王のような寛大な男になりますように。
沢山の財があたえられますように。
健康があたえられますように。
平和な家庭があたえられますように。

祝福の言葉は何度となく聞いてきたが、私に贈られるその言葉には、日頃聞きなれない特別な言い回しがあることに気がついた。

たくさんの知恵がさずけられますように。
人びとをなおせる『どくたら』になりますように。

私には『どくたら』ということばは、医者という文脈で使われる言葉という認識があった。祝福をくれるエチオピアの父は私が病気などを治す「どくたら(医者)」になるために調査にきていると理解しているのではないかと心配になりはじめた。ある日、父と、相棒のムティックと酒を飲みながら、私が目指している「どくたら」は病気を治す医者ではいことを知っているかという質問をしてみた。

「とし、お前が目指している「どくたら」は、学び合いのなかで知恵を蓄え、人の誤った考えを直したり、癒やしたり、人の問題を一緒に解決できるような「どくたら」だろう? 医者のどくたらとは違う「どくたら(博士)」ということは、わかっているよ。私達の文化のジャルサ(尊敬される知恵と解決力をもつ年長者)みたいな人間だろう ははは」

エチオピアの父(ジャルサ)は、私が目指す「どくたら」をしっかり理解してくれていた。

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『どくたら(博士)』になるための、学位申請論文は「アフリカ在来犂農耕の地域研究ーエチオピア中央高原に暮らすオロモの人びとによる牛耕の潜在力」として提出し審査をうけ、平成26年3月24日に博士(地域研究)の学位を正式に授与されました。

現地点では幼いころから思い描いていた、野田さんのような「ドクター」は未だに憧れで、私が尊敬するエチオピアの年長者(ジャルサ)がいうような、「人びとの考えを直したり、癒やしたり、人びとの問題によりそって解決できる」ような『どくたら(博士)』にもほど遠く、研究者としても、駆け出しの未熟者です。
彼らが大切にしているものをしっかり理解できているか、守ることができているかという不安もさることながら、さまざまな葛藤や煩悩と折り合いをつけ、当面の状況を生き抜けるのに精一杯の日々というのが現実です。


しかし、新たなスタートとして、ここからも、そして今までみたいにこれからも、あせらず、こつこつ、ねばってやりぬくという姿勢を大切にすすんでいきたいと思っています。
 

そして私の理想である彼らに寄り添い、お互いの「より良い生活」というものの「創造」を目指して、共に考え、行動していく、『どくたら』になれるように精進してまいります。
 

今後はエチオピアのみならず、日本にいる私を支えてくださる身の回りの人たちにも、寄り添いながら生きていければと思っています。今後ともみなさま、ご指導ご鞭撻のほど、どうぞよろしくお願い申し上げます。

これまでご声援ご協力いただいた全ての方々にこの場をかりて、感謝の気持ちを記します。全ての人のお名前をあげることはできませんが、私はおおくの人びとに支えながらこれまで研究をつづけてこれました。とくに指導教授の重田眞義先生にはフィールドワークから論文完成のみならず、研究環境を十分に整えていただき、温かくも守っていただき、励ましていただきました。記して感謝の意を示したいと思います。博士論文の副査をつとめてくださりました、太田至先生、大山修一先生にもお礼を申し上げたいと思います。エチオピア研究の先輩方には大変お世話になりました。とくに西真如さんと川瀬慈さんには、いつも研究のことのみならずさまざまな場面で支えてもらいました。そして、博士になるにあたりとくに心の支えになったのは、調査地に生きる人びとの姿でした。エチオピアでの父バルチャ・フィーテ、母イルフボーダナ、ムティック、トレサの献身的な協力がなければ、この論文は完成しませんでした。深く感謝いたします。最後にいつも温かく励ましてくれる祖母、いつも私のやりたいことを全力で応援し続けてくれる母と、大学院在世中に亡くなった父へあらためて感謝の気持ちを記しておくことをお許しください。

2014年3月31日 
たなか としかず