2009年10月22日木曜日

アフリカ農村での携帯電話に関する農民のちょっとした発想


エチオピアの農村では、今急速に携帯電話が普及している。
都市部に近い僕の調査村はまさにそのなかにある。
携帯を持つ理由は主に以下のとおり。
① 社会的ステータス  もっているというだけで、自慢になる。
② 友人との情報交換のため。 
③ 仕事として利用。 マーケットの価格などこれでおさえて戦略をとる人もいる。
④ 音楽プレヤーや、カメラ、ビデオ、これらのオプションを楽しむため。
こういった機能をかねそなえる携帯電話。

僕はがはじめて調査にはいった2007年は、村の人口の1割も携帯電話をもつ人間はいなかったであろう。ゆえに、町での充電もさほど混乱はなかった。
しかし、今年2009年、村の状況は少し変わっていた。
全体的に携帯電話の所有率があがっている印象をうけた。
また、ネットワークも以前にまして、つながりずらくなっている。携帯の数が増えた結果だろう。さらには新しい機種もどんどん発売されている。2年前には僕の村の最寄の町に携帯本体のすら販売はなかったのに、今日では首都並の機種の豊富さ、加えて、SIMカードの値下げと、携帯所有ブームに追い風という状況であった。
なので、今回自身の調査項目に加えて、村全体の携帯の所有率も調査してみた。
すると面白い結果がみえはじめてきた。
村全体の世帯主のおよそ2割強、若者を中心に、ウシを売ったり、換金作物を売ったお金で携帯電話をもちだしているのだ。それもこの2年の話。

ここで新たにおこる問題が電気のない村で携帯をもつというとこと。
想像してもらえるとは思うが、電気のない村で携帯を使う上での制限要因となるのはバッテリーの問題。充電がきれてしまったときの話だ。
以前では町のカフェやスークで簡単に自分の携帯を本体ごとあずけ、充電できたのだが、今日ではたくさんの人が充電にくる。なので最近では携帯電話の予備の電池をもって、電池だけあずけて充電するというスタイルが一般的になってきた。そうすればステータスでもある携帯電話自体はいつも手のなかにある。

ここでおきる問題は、充電中のバッテリーについて。
ひとつのカフェに8個も充電バッテリーがあると、誰が誰のものかわからなくなってしまう。
バッテリーは見た目は同じでも、中身はまったく異なる。
新品のバッテリーは10時間はもつのにたいし、古くなると2時間ももたない。
時に、誤って新しいバッテリーをもっていかれてしまうこともあるという。
なので、新品のバッテリーをもつ人間は非常に自分のバッテリーに対して注意深い。

そこで、新しいバッテリーを手にした、僕のアシスタントであり、兄弟でありエチオピアでの真の相棒であるムティックは、僕の調査用具を眺めならが、ある日ひらめいた

これをつかわしてくれ!!!

現場にでてくる問題に対して、現状のものをうまく利用して対処する。
以来、僕の周りの携帯をもつ友人達は、僕のその調査用具をもちいて、今までおきていた問題を克服した。そして村でのブームに?まで発達した。

その調査道具とは「セロハンテープ」

紙に自分の名前をかいてセロハンテープでバッテリーに貼り付ける。

ちょっとの発想で、新しくおきる問題に対処するエチオピアの人々。

そもそも、名前が書いてあってももっていく奴がいるではないか?と一見思うかもしれないが、それはエチオピアの田舎での話。人のものを意図的にもっていくという人は滅多にいない。財布をお金をいれておいておいても次の日無事にもどってくるような社会。
むしろバッテリーに名前がはってるのだから。意図的にもっていく人などそうはいない。
ましてや、みなの目がある町のカフェやスークという場所で。
小さな会問題に即対応する問題解決能力、彼らとともに生活するなかで学ばせてもらうことのひとつにはこんなものがある。

写真は相棒のムティック
いつも仕事のあと一緒にいく酒場にて。

2009年5月12日火曜日

ナマステ


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 アジア・アフリカ地域研究情報マガジン
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 http://www.asafas.kyoto-u.ac.jp/kaikaku/index.html

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■【発行部数 781 】■■■■



これは私がネパールフィールドスクールで訪れたピンタリ村での光景です。 はじめておとずれる調査地、その土地の言葉も理解できず、村の人たちとどのようにコミュニケーションをとったらいいのだろうか。 自分のフィールドに初めて入った時の経験を思い出しながら、新たなフィールドを前に少々の不安を抱いていました。

その不安を払拭するかのように、村の女性たちは、私たちに挨拶をしてくれました。 数十キロはあるであろう、脱穀後の小麦を運んでいる最中に満面の笑みで両手を合わせて「ナマステ」と。 私も嬉しくなって両手をあわせて「ナマステ」と返事をすると不安は和らいでいきました。

言葉ができなくても、挨拶をきっかけに、お互いのコミニュケーションは始まる。 フィールドワーカーとして、そして人として、挨拶の素晴らしさ、重要性を再認識させられました。 それと同時に、逞しく生きる彼女たちに魅了されました。