2014年11月6日木曜日

それでも助けあう- エチオピア中央高原の農村でおきた事件から

JANES ニュースレターNo.20 pp3-6

オリジナルは下記のURLからご覧になれます

http://www.janestudies.org/drupal-jp/sites/default/files/JANES_NL_J_no20_pp.3-6_tanaka.pdf

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私は2007年の8月から、エチオピア中央高原首都アディスアベバからおよそ南西110キロに位置するオロミヤ州南西ショワ県ウォリソ郡ディレディラティ村に暮らすオロモ(Oromo)の人々を対象に、在来の有畜農業について調査をおこなってきた。村の人口は1600人前後で、標高2000メートルの高低差のすくない平地にある。主要な生業は、主にテフ、小麦、エンセーテ、チャットなどを栽培する農業と、ウシ、ヒツジ、ヤギ、ウマなどの家畜飼養である。年間降水量は1200ミリ前後で比較的降雨に恵まれた国内でも有数のテフの穀倉地帯である。雨季の始まる5月から8月のおよそ3ヶ月間、テフの播種床を整えるための牛耕を行う。私はこの有畜農業にみられる牛耕に焦点を絞り、これ約12ヶ月間のフィールドワークを実施してきた。
これまでの研究で私は、牛耕に必要な21組の去勢牛をもつ世帯は所有する畑を耕作期間内に十分に耕せており、そのうえで余った耕起力は、畜力や労働力をもたない世帯に分配されていることを明らかにした。今私はこの余剰分配などにみられる、人々が助け合う仕組みをどのように理解したらよいかという点に強い関心を抱いている。本稿では、村に住む男性ブーシェ(仮名)が起こした事件を紹介することを通じて、私が感じたことを記してみたい。

20078月、私は調査村の中でも比較的裕福で、私と年齢の近い家族が多くいるバルチャさんの息子として受け入れてもらい、調査を開始した。調査の初期に出会ったのが隣人のブーシェである。ブーシェはバルチャ家とも良好な関係を結んでいた。当時彼は結婚して2年目で年齢はおよそ34歳であった。彼の第一印象は「陽気さ」と「前向きさ」の2点である。いっけんして彼は村人の皆に慕われている人気者のように思えた。私の調査という仕事もすぐに理解して、出会った当初から全面的に協力してくれた。
 初めての3ヶ月の調査の最終盤のことである。しばしの別れの挨拶も込めて、ブーシェと一緒に地酒を飲みたいと思った。彼は近隣の街ウォリソで数々の武勇伝を残しているほどの遊びの達人で、「あいつは人間ではない」と形容されるほどの酒飲みでもあるという噂を聞いていた。親友となったブーシェの武勇伝を、帰国前に盃を交わしつつ本人の口から直接に聞いてみたいと思ったのである。ブーシェの家を私の調査助手であり弟つまりバルチャさんの息子でもあるムティックと共に訪ねると、彼は私たちを家に招き入れてくれた。いつものように定型の挨拶を交わす。「元気か?」「元気だ、君は元気か?」「僕は元気だ」。同じようなやりとりをオロモ語で数回繰り返す。しかし、いつもの快活な様子ではない。
ひと通り挨拶が終わったあと、「元気に見えないけど、どうした?」と拙いオロモ語で聞くと、「今日は少し調子が悪い、でも元気だ」とブーシェは答えた。「病気かな?風邪?」と聞き直すと、何の躊躇いもなく「HIVポジティブって知っているか?」と答えた。続けて「俺は昔、街のブンナベットで女の子と沢山遊んだから、この病気をもらった」と何でも知りたがる調査者の私に、簡潔なオロモ語で説明しれくれた。私は思わずお酒を誘いにきたのも忘れ、頭が真っ白になると同時に、自分が病気におかされたかのような絶望的な気分に襲われて、黙りこんでしまった。そんな私の心情を悟ったのか、ブーシェは「たまに調子は悪くなるが、死なない、薬もあるし、もらえるから」と私を気遣うように説明してくれた。この日はお酒を誘うのを断念し、ムティックと共に家を出た。道中彼にその事実を知っていたかと尋ねると、「村の人はみんな知っているよ」と答えた。さらに、ブーシェの奥さんもHIVポジティブなのかと尋ねてみると、「僕は知らないが、彼女は薬をもらっていないみたいだよ」とだけ教えてくれた。

 2009年の5月、ブーシェと出会ってからおよそ2年が経ち、ようやく、念願の研究テーマである牛耕を調査することになった。ブーシェは相変わらずの陽気な調子で、「うちの畑も耕しにこい、お前の家の牛耕以外も見る必要があるだろう」と誘ってくれた。牛耕は21組の去勢牛のペアが基本で畑を耕す。私のお世話になっているバルチャ家は去勢牛を42組もつ。去勢牛を1頭しかもたないブーシェの世帯は、どのように耕起作業を組み、畑を耕すのか。調べるには絶好の機会であると思い、彼の家の牛耕に1度だけ参加させてもらった。
ブーシェは自分と同じく去勢牛を1頭しかもたない隣家からウシをかり、ペアを作って耕起作業を行った。通常このような場合はウシだけを近隣世帯から借りるのだが、近隣世帯の人も彼のウシと共に畑を耕しにきていた。私がその隣人にいつも彼の畑を耕すのかと質問したところ、体調の悪い時はブーシェだけでは耕しきれないので、地域の人々が交代で助けあうとの答えだった。その日のブーシェは、いつもの陽気な様子で「代わってくれ」と隣人に遠慮なく甘えながらも、自分のできる範囲で畑を耕していた。観察者の私にも積極的に労働力としての協力をもとめ、ブーシェ流の牛耕指導をしてもらった。
 ブーシェの畑を耕した数日後の午後、バルチャ家とブーシェとの間で「いざこざ」が起きた。ブーシェが、牧童の不注意でバルチャ家のウシが彼の畑を荒らしたと怒鳴りこんできたのである。牧童は、ギリギリのところで食い止めたし、事実畑は荒れていないだろうと主張する。ムティックも牧童の主張を支持したがお互いの意見が食い違い、しまいにはムティックとブーシェは怒鳴りあいながら30分近くも口論をした。いつも陽気で優しいブーシェが初めて見せた殺気立った態度に私は驚きを隠せなかった。翌日私は、一人でブーシェのところを訪れた。彼はいつものような陽気で優しい様子で、昨日の問題はすでに解決したかのように私に振舞った。彼の顔をよくながめてみると、2年前よりも若干痩せこけているのに気がついた。タバコを淡々とふかしながら語るその仕草は印象的だった。彼が喫煙するのを見たのはこれが初めてだったからである。
 
その事件から1年後の20105月、私が前回の調査で日本に帰国した後にもっと大変な事件が起きていたことを村につくなり知った。ブーシェが調査村からいなくなっていたのである。加えて、バルチャ家のムティックとその兄アバラもいなくなっていた。ことの発端は私が前回の調査で村を去ってから3ヶ月後のある昼間におこった事件だったという。一部始終を見ていた人によると、ブーシェが昼間から酔った様子で、アバラの名前を呼びながらバルチャさん宅の前に仁王立ちしていたという。アバラが出てくると、突然隠し持っていた鉄の釘でアバラの目を狙って襲いかかったという。アバラの片目は潰れた。その時近くにいたムティックは、目を負傷したアバラと共に反撃にでて、ブーシェにアゴの骨と鼻の骨、歯の骨を折る重症を負わせた。この事件で、お互いに心身ともに深い傷を負っただけではなく、喧嘩両成敗の結果、ブーシェは懲役2年、釘を刺されたアバラも懲役1年、ムティックも懲役1年の判決をうけ刑務所に入れられることとなってしまった。
 私はそのころのブーシェの様子を複数の人から聞きとった。変わったことといえば、酒をよく飲むようになり、タバコも多く吸うようになっていたことだという。酒場では、色々な人と喧嘩をよく起こしていたらしい。以前の陽気な彼からは想像もつかないほどの荒れっぷりだったという。1年前の、放牧時のミスをめぐる激しい口論が頭によぎる。私は、ムティックとアバラ、そしてブーシェに会うために刑務所へ足を運んだ。アバラは片目が潰れてしまい、もとの輪郭はない。ひどく落ち込んでいるのか言葉数も少ない。ブーシェの怪我は治癒したようであったが、以前のような陽気さはなく、さらにやせ細っていて別人のように感じた。彼は何も語ろうとしなかった。ただ私が来てくれたことに対して笑顔をみせてくれただけであった。
 私は、この事件が個人間だけの問題ではおさまらず、今まで協力しあっていた世帯間の関係の悪化にまで繋がるのではないかと危惧した。しかしその予想は覆された。バルチャさんの家族は1人残されたブーシェの奥さんを気遣うように、さまざまな手助けをしていた。とくに、男性にしかできない農作業を手伝うなど、男手のいなくなった彼女のくらしを気遣って、頻繁に家を訪れていた。当初、私にはそのような行動がひどく奇妙なものに思えた。自分の家族に一生残る傷を負わせた、恨みすら抱きかねない人の世帯を助けることなど、理解に苦しんだ。
しばらくして、バルチャさんの妻からこんな言葉を聞いた。「ブーシェがしたことは悪いことだ。皆が刑務所に入るのも残念なことだ。しかし、この問題は個人のことだけではなく、我々の地域の問題である。だから、今、地域で苦労しているブーシェの妻を助ける。困った時は助けあうことが大切なのだよ」。もちろんバルチャ家には、「ブーシェを殺してやりたい」といった発言をするものもいる。しかし、私は上記のことばから、人々がこの問題を個人の責任だけに帰してしまうのではなく、地域全体の問題と捉えたうえで、皆でその問題から生じる損失を共に補い、協力しながらそれを乗り越えようとする術を探っていることに気づかされた。私自身もこの仕組に加わることでさらに「それでも助けあう」ことについて理解を深められないかと考えた。
 働き盛りの男3人が服役中であるため、牛耕シーズンのこの時期には労働力が不足するという事態がおきた。私は調査をかねつつも、畑を耕すことで協力できないかと思い、ムティックやアバラ、ブーシェの代打として畑を耕した。まだまだ未熟な私に彼らほどの十分な仕事ができたとは思えないが、私はこの体を使った手助けを通じて、地域の牛耕技術をより詳細に理解することができるようになった。それに加えて私自身が日々牛耕をすることで、「助ける」という感覚で畑を耕すのは地域の文脈ではなじまず、「助けあうのがあたりまえ」と考えると理解できる部分があることに気がついた。そのきっかけは、街で見知らぬ人と会話しているなかで「外人がよく農民を助けるために耕すね」と言われたとき違和感を感じ「違う、助けあうのはあたりまえだから」と反射的に答えた経験にあった。今思うと地域の人々の考え方や振る舞いを体全体で理解しようとするなかでたどり着いた私の一つの潜在的な答えが浮き彫りになった瞬間だったと思う。
帰国間際、ブーシェやムティックにお別れをいうために刑務所に訪れた。ブーシェは私が彼の畑を耕したのを聞いたのか、「今度は一緒に畑を耕そう」と最後にぼそっと言った。この言葉から私は、現状を乗り越え再び地域の未来を背負っていく若い担い手の一人に彼が更生していく可能性を、感じ取ることができた。
 
何がブーシェをこのような事件に追いやったのか、私にはその本当の動機はいまだにわからない。ブーシェが一生取り返しの付かない傷をアバラに追わせてしまった罪も重い。アバラのその苦痛は計り知れないし、様々な人に悲しみをもたらす事件になったのは事実である。けれども個人の問題に帰せず地域全体の損失ととらえ、人々が「助けあい」で問題をのりこえようとする姿を垣間見ることができた。私が当初抱いたなぜ「それでも助けあう」のか、という疑問は、バルチャさんの妻の言葉や、牛耕の実践、街の人との会話を通じて、「助けあうのがあたりまえ」と解釈するに至った。助け合いの仕組みをどのように理解したらいいのかという私の問に対しまだ答えは見いだせていないのだが、この事例を通じて、問題を地域で共有し、その損失を出来る範囲の余力をあたりまえに分け合うことで対処していくことの強さを確認したと思う。
だからこそ、どうして「自分はHIVポジティブだ」と何の躊躇もなく振る舞える、前向きで陽気なブーシェの抱える不満や不安を、事件が起きる前に汲み取り分配し解消することができなかったのかとも思ってしまう。私は事件の背景には、一生逃れることのできないHIVと上手につきあいきれていない彼のジレンマが少なからず関連していたのではないかと推測する。ブーシェの奥さんも現在HIVポジティブのため薬を飲んでいるのを私は目撃した。この病気の問題に対しても全面的に地域の「あたりまえに助けあう」力で、取り組んでいってもらうことを切に願う。


(たなか としかず 京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)

2014年4月11日金曜日

どくたら(Dr.)


今から18年前エチオピアで「ドクター」というものをはじめて知った。

1996年3月末、私は逞しく生きるエチオピアの人びとと出会った。首都、アディスアベバから西南130キロほどいったウォルキッテという街から入った農村で、私は農民に手をひかれ、畑をみせてもらっていた。日本でみたことのない作物、土の匂い。全てが新鮮だった。私は、この人たちと寄り添ってなにかをしたい。直観的にそう思った。

私はいったい何ができるのだろう。

ウォルキッテの農村に住み込みながら、家畜の診療をおこなっていた1人の日本人獣医師「野田さん」と出会った。
野田さんは彼らの生活の基盤として欠かすことができない、様々な役割を担う「ウシ」を護る「家畜診療」の仕事を、村に住み込みながらおこなっていた。
畑を耕す、牛耕用のウシは、彼らの生活を支える重要なものであることを、その時に知った。野田さんは、エチオピアの人と寄り添いながら、彼らの大切にしているものを一緒に守りつづける、そんな仕事をしているように思えた。
「ドクターノダ、ドクターノダ」エチオピアの農村の人びとに慕われ、ともに生きる、野田さんという大人に、13歳の私は強く憧れた。

「エチオピアに行くことが目標になっていはいけません、エチオピアで何をするか、考え行動することが重要です。」

憧れの野田さんからもらったこの言葉で、自分のできることは何か、模索する日々が始まった。想いを叶えるためにまずは「私が」学ばないといけない、そんな風に旅の中で考えるようになった。
医者や獣医の「ドクター(医師)」とはべつに「ドクター(博士号)」というものもあることを知った。この国に寄り添って仕事をするには「ドクター」になることは重要であるとを子供ながらに学んだ。まずは野田さんのような「獣医(ドクター)」を目指そうと決意した。13歳のときだった。

様々な人びととの出会いや関係のなかで、「エチオピアの人びとに寄り添って働きたい」という想いは、ゆっくりと育てられてきた。

「ドクター(獣医)」になるという夢は、はかなくも散ってしまったけれども、大学時代は「農」と真剣に向き合う切磋琢磨できる仲間達に恵まれた。ウシの飼養管理や農家の人びととの関わり方も実習を通して学んできた。7年前に大学院に進学し、「アフリカ地域研究」で、まずは「ドクター(博士号)」を目指す研究生活がはじまった。13歳の時に見たエチオピアの農業を、ウシを使って耕す「人びと」を、正しく、深く、理解することから始めたい。フィールドワークに基づくエチオピアの牛耕の研究のスタートだった。はじめて訪れたウォルキッテの街から10キロ首都よりの街、ウォリソ(ギオン)の農村に縁があり調査をはじめた。まずは、そこに暮らす人びとの生活を、全身を使って、時間をかけて正しく理解する、当時の決意を今でも鮮明に思い出す。

憧れの野田さんのように、農村で人びとともに寝食をし、対話を繰り返し、寄り添いながら学ぶ、11年思い描いていた自分は現実のものとなっていた。それにも関わらずエチオピアの農村で自分は何をやっているんだろうという思いを抱くことがあった。夢を抱き、遠いアフリカまでやってきて、苦労のすえ村の人びとに受けれてもらい、言葉を学びながら、生活を手とり足取り学ぶ。それは私自身が希望し、多くの困難を乗り越えながら、ようやくはじめたフィールドワークだったはずなのに。

なかなか理解できない彼らの行動や、自分のわがままなふるまいで迷惑をかけてしまっている申し訳なさで悔しい思いをした。高熱で魘され、虫さされによる痒みで発狂した日々もあった。何かをつかもうとしても、空気ばかり掴んでいるようで、何も形にならない苦しい日が続いた。知識は少しつづ蓄えられていっても、解るということの厳しさ、難しさを全面的に突きつけられた。それでも、あたたかい人びとに支えられ、エチオピア農村の人びととの一緒の時間を積み重ねることができ、そのなかで何かを浮き彫りにし、理解できたときの喜びは言葉にできないほどおおきなものだった。今ふりかえるとフィールドのワークのはじまりとはそのような、苦しみや喜びを乗り越えていく日々だったように思う。

毎年のように日本とエチオピアを調査のために往復し、言葉もしだいに話せるようになり、人びととの付き合いがさらに深まってくると、日本にいるときの自分との違和感を感じるようになる。自分が何者か、よくわからなくなりはじめる。エチオピアで価値観を揺すぶられる強烈な経験を重ね、苦しみながらも、受け入れ、咀嚼し、自分のものにしていくにつれて、新たな自分は形成され、今度は自分が育ってきた社会の生活に疑問が生まれ、いろいろなことがさらによくわからなくなっていく。2つの世界で生きることは、自分の新たなる価値観の創造へ導く力をもっている。それと同時にあらたなる葛藤の世界へ自分を飛び込ます力にもなる。それだけではない。2つの世界のもつ厳しい現実に迫られる。目の前につきつけられる、大きな現実に直面したとき、何もできない自分の未熟さに、どうしようもなく、つぶされそうになることがある。

そんな時もエチオピアの懐は深い。私の気持ちをまっすぐ受け止めてくれる人びとがいる。
「心配ない、できるよ、ゆっくりゆっくり」
性急な答えは求めない、ゆっくりと着実に厳しい状況にも耐えながら生きていく姿勢を学んだ。たんたんと耕すように。
自分の足りない考えを、誤った思考を正すように、心を癒してくれるように、逞しく生きる人びとは、上手に生きる知恵や構えを共有してくれた。

共有の潤滑油ともいえる、「酒」が調査地にはある。
時には奢ってもらい、私も奢り、酒を通じた時間も共有してきた。
酒を瓶で購入すると、年長者に捧げ、まずは祝福の言葉をかけてもらう。

かみさまのご加護がありますように。
偉大な人間になりますように。
王のような寛大な男になりますように。
沢山の財があたえられますように。
健康があたえられますように。
平和な家庭があたえられますように。

祝福の言葉は何度となく聞いてきたが、私に贈られるその言葉には、日頃聞きなれない特別な言い回しがあることに気がついた。

たくさんの知恵がさずけられますように。
人びとをなおせる『どくたら』になりますように。

私には『どくたら』ということばは、医者という文脈で使われる言葉という認識があった。祝福をくれるエチオピアの父は私が病気などを治す「どくたら(医者)」になるために調査にきていると理解しているのではないかと心配になりはじめた。ある日、父と、相棒のムティックと酒を飲みながら、私が目指している「どくたら」は病気を治す医者ではいことを知っているかという質問をしてみた。

「とし、お前が目指している「どくたら」は、学び合いのなかで知恵を蓄え、人の誤った考えを直したり、癒やしたり、人の問題を一緒に解決できるような「どくたら」だろう? 医者のどくたらとは違う「どくたら(博士)」ということは、わかっているよ。私達の文化のジャルサ(尊敬される知恵と解決力をもつ年長者)みたいな人間だろう ははは」

エチオピアの父(ジャルサ)は、私が目指す「どくたら」をしっかり理解してくれていた。

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『どくたら(博士)』になるための、学位申請論文は「アフリカ在来犂農耕の地域研究ーエチオピア中央高原に暮らすオロモの人びとによる牛耕の潜在力」として提出し審査をうけ、平成26年3月24日に博士(地域研究)の学位を正式に授与されました。

現地点では幼いころから思い描いていた、野田さんのような「ドクター」は未だに憧れで、私が尊敬するエチオピアの年長者(ジャルサ)がいうような、「人びとの考えを直したり、癒やしたり、人びとの問題によりそって解決できる」ような『どくたら(博士)』にもほど遠く、研究者としても、駆け出しの未熟者です。
彼らが大切にしているものをしっかり理解できているか、守ることができているかという不安もさることながら、さまざまな葛藤や煩悩と折り合いをつけ、当面の状況を生き抜けるのに精一杯の日々というのが現実です。


しかし、新たなスタートとして、ここからも、そして今までみたいにこれからも、あせらず、こつこつ、ねばってやりぬくという姿勢を大切にすすんでいきたいと思っています。
 

そして私の理想である彼らに寄り添い、お互いの「より良い生活」というものの「創造」を目指して、共に考え、行動していく、『どくたら』になれるように精進してまいります。
 

今後はエチオピアのみならず、日本にいる私を支えてくださる身の回りの人たちにも、寄り添いながら生きていければと思っています。今後ともみなさま、ご指導ご鞭撻のほど、どうぞよろしくお願い申し上げます。

これまでご声援ご協力いただいた全ての方々にこの場をかりて、感謝の気持ちを記します。全ての人のお名前をあげることはできませんが、私はおおくの人びとに支えながらこれまで研究をつづけてこれました。とくに指導教授の重田眞義先生にはフィールドワークから論文完成のみならず、研究環境を十分に整えていただき、温かくも守っていただき、励ましていただきました。記して感謝の意を示したいと思います。博士論文の副査をつとめてくださりました、太田至先生、大山修一先生にもお礼を申し上げたいと思います。エチオピア研究の先輩方には大変お世話になりました。とくに西真如さんと川瀬慈さんには、いつも研究のことのみならずさまざまな場面で支えてもらいました。そして、博士になるにあたりとくに心の支えになったのは、調査地に生きる人びとの姿でした。エチオピアでの父バルチャ・フィーテ、母イルフボーダナ、ムティック、トレサの献身的な協力がなければ、この論文は完成しませんでした。深く感謝いたします。最後にいつも温かく励ましてくれる祖母、いつも私のやりたいことを全力で応援し続けてくれる母と、大学院在世中に亡くなった父へあらためて感謝の気持ちを記しておくことをお許しください。

2014年3月31日 
たなか としかず