思い出の種を撒く
「私が種を撒かなければ、花は開かない」谷川俊太郎作、僕の出身の幸小学校の校歌のはじまりの言葉である。
幼少のころから深く心に刻まれてきたフレーズである。
なんでも、よかれと思う種を見つけた時は、急いで撒かずに、まず畑を耕すことが大事であると考えてきた。
牛耕のようにゆっくりと、でも着実にまずは耕す、つまり育つベースを整える。播種床を整えなければ、芽がでることはない。
そしてタイミングをはかって、種を撒く。
それでも、どれだけの芽が出ただろう。僕の撒いた種の発芽率は極めて低い気がする。
先日僕の撒いた種が芽吹いたという知らせがフィールドより届いた。
エチオピアで生活をしているとよく「マスタオシャ」をくれといわれる。
「思い出の品」といった意味であると思う。
何がいいのかと尋ねるとたいてい「君のものなら何でもいい、それで君を思いだせるから」といわれる。
はじめは、なにをあげたらいいのかよくわからず、自分の装飾品であったり、ペンであったり、身の回りの日本から持ち込んだものを、相手の状況を自分なりに考えたうえであげていた。それでも、相手にとって有用であったかのかは、さほど重要ではないのだと考えるようにしていた。あげたものの効用以上に、あげた彼と僕との間に、よい関係が生まれる可能性があればよいと願っていた。その「マスタオシャ」たちは、しばし借金の返済のために売却されていたり、酒代で消えてしまうということを後に知ることになる。
僕がよかれと思ってあげた「マスタオシャ」は「役にたった」のかもしれない。けれども、本来の「マスタオシャ」意味を理解するための道のりは長いと感じた。
種を撒く前に畑を耕すことの重要性を思い出した。
調査を通じて、長年地域に通い続けていると地域住民とのやりとりのなかでさまざまな提案をされる。
「言葉もできるようになって、文化も学んだ、牛耕もできるようになった、次は牛をもたないか?」(僕としてはまだまだなのだが、大げさに褒めてくれる)
男として結婚が認められるには、牛耕ができること、牛を持っていること、家をもっていることなどが基本的な条件としてあげられると思う。自分で牛をもつということで、牛の育て方も主体的に観察できると思った。現地のホストファミリーの協力を得て、自分の牛をもつことにした。家畜市で繁殖可能な雌牛を、皆でよく見極めて、僕がお金を払って購入した。
調査が終わりに近づき日本に帰国する時に、一番お世話になったホストファミリーの母にその雌牛を「マスタオシャ」と言って譲ろうとした。母は「私達の雌牛よ、あなたが留守の間は大切に育てるから、早く帰ってらっしゃい」と言った。
フィールドでも最近フェイスブックがはやっている。
先日ホストファミリーの兄弟から、こんなメールがきた。
Sanii kee jibichadhale,16/9/2oo4 maqaan isaa Bukuura .jedhama.
直訳 あなたの種(つまり僕の雌牛)が、雄牛を2004年9月16日(エチオピア歴)を産みました。彼の名前はブクーラといいます。
通常牛に対しては体の体色を基準とした雌雄成育段階別の呼び方がある。特別な愛着があるような牛には稀に固有名をつける傾向がある。ブクーラは固有名、愛されているのが伝わってくる。
順調に育てば、ホストファミリーの畑を耕す、立派な牛になってくれるだろう。
撒いた種の芽が珍しくでてきた気がした。大切に上手に育ててくれるだろう。あちらはプロの農民だ。
ちゃんと花が咲いてほしいと思う。
僕が撒いた種はどうなっていくのか、この先もフィールドに通い続けて、観察していきたい。そして「マスタオシャ」の意味についてもさらに考え続けていきたいと思う。