2015年5月21日木曜日

エチオピア中央高原における持続型生存基盤としての犁農耕の可能性ーテフ−ウシ−人関係に着目してー

JANES ニュースレター No.22 pp53-56

第23回学術大会最優秀発表賞

図や写真を含めたオリジナルは下記よりご覧になれます

http://www.janestudies.org/drupal-jp/sites/default/files/JANES22_Tanaka.pdf


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1.     はじめに
Werth(1954)によるとインド北西部で起源したと推測される犁はアラビア半島を経由して、エチオピア高原の北部から中部にわたる地域(現在のティグライ州およびアムハラ州)へ到達した。その歴史は「紀元前1000年前」(Aune et al. 2006 :311)と考えられており、その起源は「テフの播種床の整地が起源」(McCann 1995: 298)と推測され、今日でも主要な耕起手段として同国において幅広く実践されている。テフ(Eragrostis tef)とはエチオピア高原を原産地とする、草丈2090cmのイネ科の一年草で、古くからエチオピア高原の全域で栽培されている作物である。耐乾性に優れ、9から12週間で収穫でき、1ヘクタールあたり270㎏から800㎏の種子の収穫が期待できる。人びとは収穫したテフの種子を粉にし、水でとき3日ほど発酵させ、直径50センチほどの薄い円盤状に焼きあげる。これはインジェラとよばれ、エチオピアの広い地域で主食とされている。

エチオピアの牛耕に関しては、農学や畜産学、農業工学の手法を複合的に用いて分析する研究(例えばGoe 1987)や犁と作用する土の関係を分析する研究(例えば、Solomon et al. 2006; Melesse et al. 1999; Mouazen 2007など)がこれまでにとりくまれてきた。以上の研究は牛耕を構成する各要素の技術的側面からの検討をおこなってきた点では評価できる。しかし、環境や社会要因などの側面を含めた分析や、犁耕をおこなっている人びとが抱える諸問題や、その対応についての検討が不足していた。アンケートや聞き取り調査、統計局などのデータに基づいた農村開発学の分野では、牛耕を実践する農民が抱える課題として、①人口圧による草地の減少や、乾季あけで牛耕開始時期に不足する「家畜飼料の確保」、②トラクターと比較した際の「低い作業効率」、③畜力へのアクセスをもたない「ウシなし農民」の存在という大別して主に3点が問題であると指摘されてきた。そして、それらの諸課題に対処するために、代替畜力、不耕起栽培法の技術 (例えばAune et al. 2001; Cochet 2011; Melaku 2011 など) などを駆使して、慢性的に不足する犁耕力を供給する術を開発しなくてはならないと主張されてきた。しかし、以上の研究では、実際に農民が、ウシを農業システムの一部として利用し、どのように農業生産活動をおこなっているかなど、農業システムを構成する、作物、家畜、人といった諸要素とその関係性を包括的に分析する視点が欠けていたといえよう。また農民自身が抱える諸課題に対してどのような戦略をもって対応を試みているのか、実証的データに基づいた分析が十分になされてこなかった。

本発表では牛耕を構成する各要素とその関係性に焦点をあてて、それらを社会、生態、文化の複合としてあらわれる総合的な実践と捉え、牛耕の現代的課題であると指摘される①「家畜飼料の確保」と②「低い作業効率」の2つの課題について再検討し、アフリカにおける持続型生存基盤としての在来犁農耕の可能性について考察する。

2.     調査の概要
調査はオロミヤ州、南西ショワ県、ウォリソ郡、ディレディラティ村、ガーグレ地区でおこなった。ガーグレ地区はエチオピア中央高原に位置する、標高1960mから2000mの平らな高原で、年平均1125mmの降水量を享受する地域である。この地域の土地の73%が農地、草地が15%、森が7%、未利用地が5%であることから窺い知ることができるように、この地域に居住するオロモの人びとは、家畜の飼養と農業を有機的に結合した有畜農業を営んでいる。調査地には4月から5月にかけての小雨季と6月から9月にかけての大雨季があり、人びとは5月の中旬から8月にかけて、トウモロコシ、ソルガム、コムギ、テフの栽培植物の播種床を整えるために牛耕を行う。本発表で扱うデータの多くは20078月から20133月の間に行った5回の調査(合計21ヶ月間)で得たものである。

3.     テフの栽培・利用とウシの飼料確保の検討
6世帯の農地の利用割合について分析をした結果、世帯の所有面積の大小、去勢牛の有無にかかわらず、どの世帯でも犁耕畑の割合が72%以上と掘棒を用いて耕す畑に比べてもっとも高くなっていた。ウシを持たない3世帯でも犁を必要とする畑の割合が一番高くなっていた。6世帯の犁耕畑の作付品目別の面積割合を調べた結果、犁耕畑の面積の広さ、ウシの有無に関わらず、どの世帯でもテフの作付面積の割合が50%以上で最も高いことがわかった。 

その6世帯のうち犁耕畑を194a、去勢牛を4頭保有する世帯No.1の主食の材料に着目して食事調査をおこなった。その結果、テフとソルガムを材料としたインジェラの出現頻度の割合が8月を除き、45%から85%と高いことがわかった。これらの作物は、おもに犁耕畑で生産されており、そのなかでもテフは調査地域の人びとの主食を担う重要な役割を果たしていることがあきらかとなった。

次に、テフ栽培から得られる飼料の量と給餌方法をあきらかにした。世帯No.1では牛耕期に、テフの作物体から脱穀した際にでる、稈を乾重量にしておよそ4㎏各去勢牛に給餌していた。適正な給餌量を算出するのに用いられる畜産学の飼料計算をおこなったところ、粗蛋白質、可消化養分総量、乾物摂取ともに、充足率を100%以上満たしていることがわかった。その結果から去勢牛への給餌量は適切な量であると評価することができた。テフは畑を耕す去勢牛にとっても必要不可欠であることがわかった。

また1年を通してテフ栽培から得られる飼料の量を農事暦と関連づけて検討した。2011年、去勢牛4頭2組、犁耕畑面積194aをもつ世帯No.1を例に検討した。8月に合計109aの耕起しおえた犁耕畑に78kg播種されたテフの種子は、11月に3000kgの作物体として収穫された。翌年の20122月に、テフの作物体を脱穀し、600kgの種子が得られた。種子の重量を作物体から差し引いた、テフ稈は2400kgと推定でき、その量は、種子の4倍の量に相当した。世帯No.1は、5月に、ウシの飼料として各去勢牛4頭に、毎朝1時間ほど、4キロずつ給餌していた。調査地域では乾季のはじめに、テフの稈が約150日分、つまり次の1年の犁耕期間を乗り越えられる量の飼料がすでに確保されていることがわかった。

犁耕畑で育つテフは、人びとに主食のインジェラの材料となる、テフの種子を供給するのみでなく、稈は去勢牛の優秀な飼料として利用されていた。つまりテフの栽培と家畜の飼養が有機的に結合して循環していると考えることができた。

4.     牛耕の作業効率の検討
牛耕の作業効率を算出するために、42組で牛耕をおこなった42の事例を分析した。その結果、平均犁耕時間は262分で、1日の犁耕面積の代表値は26.71aであった。この作業効率を地域の諸条件に即して評価するために、3世帯を対象に、犁耕期間と地域特有の休日などの条件をふまえて、作業効率、犁耕可能日数、犁耕畑面積の関係を定量的に分析した。その結果、ウシを所有する世帯は、人びとが語る適切とされる播種期間内に世帯が所有する犁耕畑を十分に耕しきれており、かつ余剰の犁耕力を有する作業効率であることがあきらかとなった。また地域の総畜力と総農地面積の関係を分析した結果、調査地では牛耕の作業効率で十分に地域全体の犁耕畑は耕しきれていることがわかった。
 
5.     まとめと結論
上記の分析の結果、調査地域の牛耕には、①家畜飼料の確保、②牛耕の「低い作業効率」といった農民が抱えるとされる一般的課題に対応できる能力が存在しており、人びとの主食を支える栽培植物が育つ畑の「耕起」を持続的に担う仕組みとして優秀であると評価できた。エチオピア中央高原にはテフの栽培とウシの飼養と人などの諸要素が有機的に連関した持続型生存基盤としての犁農耕が実践されていた。


参考文献
Aune, J.B., Matewos, T.B., Fenta, G.A., and Abyie, A. A. (2001). The ox ploughing system in Ethiopia: can it be sustained? Outlook on Agriculture 30(4): 275-280.
Aune, J.B., Asrat, R., Teklehaimanot, D. A., and Bune, B. T. (2006). Zero tillage or reduced tillage: the key to intensification of the crop-livestock system in Ethiopia. Strategies for sustainable land management in the East Africa Highlands. Pender, J., Place, F., Ehui, S. eds. 309-318. 
Cochet,H.(2011). A new perspective on animal traction in Ethiopian agriculture. ITYOPIS 1: 127-143.
Goe,M.R.(1987). Animal Traction on Smallholder farms in the Ethiopian Highlands. 380pp. Ph.D thesis Cornell University.
McCann, J. C. (1995).  People of the Plow –An Agricultural History of Ethiopia, 1800 – 1990.  The University of Wisconsin Press.
Melaku, T. (2011). Oxenization versus tractorization: options and constraints for Ethiopian farming system. International Journal of Sustainable Agriculture 3(1): 11-20.
Melesse, T. (1999). Animal drawn implements for improved cultivation in Ethiopia: participatory development and testing. Empowering Farmers with Animal Traction: Proceedings of the Workshop of the Animal Traction Network for Eastern and Southern Africa (ATNESA), held 20-24 September 1999, Mpumalanga, South Africa. Ed. Starkey, P., Mwenya, E. and Stares, J.
Mouazen,A.M., S. Smolders, F. Meresa, S. Gebregziabher,J.Nyssen, H. Verplancke, J.Deckers, H.Ramon, J. De Baerdemaeker (2007). Improving animal drawn tillage system in Ethiopian highlands. Soil and Tillage Research 95(1-2): 218-230.
Solomon, G., Abdul M, Mouaze, H. Van, B, Herman, R. Jan, N., Hubert V., Mintesinot B., Jozef D., Josse D. B. (2006). Animal drawn tillage, the Ethiopian ard plough, maresha: a review. Soil and Tillage Research 89: 129-143.
Werth,E. (1954). Grabstock, Hacke und Pflug. Ludwigsburg, Germany. (ヴェルト(1968)『農業文化の起源―掘棒と鍬と犁―』 藪内芳彦、飯沼二郎訳 岩波書店 東京 605ページ)


新刊ライブラリー コーヒーモノガタリ

JANES ニュースレター No.21 pp56-57

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内容紹介 コーヒーモノガタリ Coffee Story 20123
執筆者:織田雪江 発行元:アフリカ理解プロジェクト

 本書は、日本人の生活に身近なコーヒーを切り口とし、アフリカの文化と、人びとの暮らしと課題、そして私たちのとるべき行動を「学ぶ」ことを目的とした教材である。発行元のアフリカ理解プロジェクトは、アフリカ理解を通じて、グローバルな視野を持つ人材育成を目的として活動する「開発教育」の理念を基板におく国際NGOである。中学、高校の社会科教諭でもある著者は、コーヒーの「生産者の顔」が見えるようにすることや、「フェアトレード」について学習できる教材を作成するために、2008年にエチオピアに渡航した。その時に現地で触れたエチオピア独特のコーヒーセレモニーや、牧畜民カラユの人びとのコーヒー文化に感銘をうけたという。その経験を日本の人びとにも伝えたいという想いを、この旅で出会った発行元との協働によって実現したのが本書であり、日本の小学校から大学、企業の社会貢献研修などで行なわれる参加型学習の教材として活用できる内容となっている。
 本書の前書きには5つの目的があげられている。1)コーヒーの生産工程とエチオピアのコーヒーをめぐる文化を知る、2)コーヒーにまつわる経済格差の現状を認識する、3)フェアトレードコーヒーを生産するタンザニアのルカニ村で起きたコーヒー危機(コーヒーの国際価格の暴落で村が受けた負の影響)の状況を知る、4)多面的な視点でフェアトレードを捉え、批判的な思考を養う、5)コーヒー農家の現状を改善する方策を考え、問題を解決する態度を養う。これらの目的を達成するために、著者は以下の8つのテーマを用意している。

1.    コーヒーをめぐる多様な文化
2.    コーヒーの生産国と輸入国からみえること
3.    コーヒーの価格を決めるのはだれ?
4.    タンザニアのルカニ村を訪ねてみよう!
5.    フェアトレードのコーヒーのパッケージを比べてみよう
6.    フェアトレードのポップをつくろう
7.    コーヒー農家の現状をより良くする方法を考えよう
8.    「フェアトレード」とのつきあい方を考えよう

 コーヒーの文化について考えるテーマでは、付属のコーヒーの生豆・葉・殻の写真や、エチオピアで使われるコーヒーポットとカップの副教材を用いて、コーヒーセレモニーを体験し、コーヒーの作物としての特徴や、現地での飲み方ついて理解する(テーマ1)。 続くテーマは、付属のワークシートをもちいて、統計資料の読取りや、モノカルチャー経済、国際価格の変動要因、一般市場とフェアトレードでのコーヒーの価格の決め方の相違について、経済の視点から学習する(テーマ23)。次に、写真から得られる情報をもとに、話し合いを通じて各学習者が抱く印象を共有し、タンザニアの農村に暮らす人びとの生活について理解を深める(テーマ4)。続いて、日本で手に入るコーヒー豆のパッケージを用いて、価格以外の特徴を探しだし、フェアトレードの基準について考える(テーマ5)。残りの3テーマは人に伝える力を育てることを目指す。これまでの学習で理解したことを踏まえて、学習者がカフェをつくると想定し、ポップでお客に何を伝えるべきか考え、それを表現する力(テーマ6)を鍛え、ダイアモンドランキングという、いくつかの選択肢に優先順位をつける方法を用いて、与えられた課題に対する解決方法を提案する力(テーマ7)を磨く。そして、フェアトレードといかにつきあっていくのか、様々な意見をまとめあげ発表する力(テーマ8)を養う。
 本書には以下の3つの大きな特徴がある。1つ目は、最初から本書を進めたり、2ページに紹介されているティーチングプランに従ってもよいが、学習者の属性や人数、知識の量などに応じて、利用者が本書の使い方を自由にアレンジして使うことができる構成になっている点である。2つ目は、同梱されているアフリカの臨場感あふれる写真教材や、別売りの実物補助教材を適所で組み合わせることで、アフリカをより身近に感じることができる仕掛けが施されている点にある。モノやデータを適所に用いた参加型の学習を通じて、効果的に個人の主体的な学びを促進する創意工夫がなされている点が本書の大きな魅力である。3つ目は発行元の代表者で開発教育の分野で精力的に活動する白鳥くるみ氏はじめ、アフリカ研究やアフリカを対象とした開発援助の最前線で活躍する人びとが、本書の製作に協力している点である。彼らの知見が非常にわかりやすい表現で取り入れられている点も本書の価値を高めている。

 ここまで参加型の優良な教材として本書を紹介してきたが、通常の読みものとしても価値がある。行動力や思考力を養うことを手助けする本書は、特にアフリカでの開発援助の実務や、研究者として関わることを目指す高校生と大学生にお勧めしたい。本書はアフリカを深く理解するのに有効な手段と筆者が考える、五感を使って感じ、考え、行動する「フィールドワーク」の基本的な作法を育ててくれる要素が大いに詰まっている。ないものねだりではあるが、実際に課題を読者自身が設定できるようなヒントを提供し、読者が主体的に興味や関心に向かって「フィールドワーク」できる仕掛けが備われば、実践的な教材としての価値はさらに高まったであろう。今後もアフリカ理解プロジェクトによる、このような優れた本の製作試みが継続的におこなわれていくことを期待してやまない。(田中利和/京都大学 アフリカ地域研究資料センター)

2014年11月6日木曜日

それでも助けあう- エチオピア中央高原の農村でおきた事件から

JANES ニュースレターNo.20 pp3-6

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私は2007年の8月から、エチオピア中央高原首都アディスアベバからおよそ南西110キロに位置するオロミヤ州南西ショワ県ウォリソ郡ディレディラティ村に暮らすオロモ(Oromo)の人々を対象に、在来の有畜農業について調査をおこなってきた。村の人口は1600人前後で、標高2000メートルの高低差のすくない平地にある。主要な生業は、主にテフ、小麦、エンセーテ、チャットなどを栽培する農業と、ウシ、ヒツジ、ヤギ、ウマなどの家畜飼養である。年間降水量は1200ミリ前後で比較的降雨に恵まれた国内でも有数のテフの穀倉地帯である。雨季の始まる5月から8月のおよそ3ヶ月間、テフの播種床を整えるための牛耕を行う。私はこの有畜農業にみられる牛耕に焦点を絞り、これ約12ヶ月間のフィールドワークを実施してきた。
これまでの研究で私は、牛耕に必要な21組の去勢牛をもつ世帯は所有する畑を耕作期間内に十分に耕せており、そのうえで余った耕起力は、畜力や労働力をもたない世帯に分配されていることを明らかにした。今私はこの余剰分配などにみられる、人々が助け合う仕組みをどのように理解したらよいかという点に強い関心を抱いている。本稿では、村に住む男性ブーシェ(仮名)が起こした事件を紹介することを通じて、私が感じたことを記してみたい。

20078月、私は調査村の中でも比較的裕福で、私と年齢の近い家族が多くいるバルチャさんの息子として受け入れてもらい、調査を開始した。調査の初期に出会ったのが隣人のブーシェである。ブーシェはバルチャ家とも良好な関係を結んでいた。当時彼は結婚して2年目で年齢はおよそ34歳であった。彼の第一印象は「陽気さ」と「前向きさ」の2点である。いっけんして彼は村人の皆に慕われている人気者のように思えた。私の調査という仕事もすぐに理解して、出会った当初から全面的に協力してくれた。
 初めての3ヶ月の調査の最終盤のことである。しばしの別れの挨拶も込めて、ブーシェと一緒に地酒を飲みたいと思った。彼は近隣の街ウォリソで数々の武勇伝を残しているほどの遊びの達人で、「あいつは人間ではない」と形容されるほどの酒飲みでもあるという噂を聞いていた。親友となったブーシェの武勇伝を、帰国前に盃を交わしつつ本人の口から直接に聞いてみたいと思ったのである。ブーシェの家を私の調査助手であり弟つまりバルチャさんの息子でもあるムティックと共に訪ねると、彼は私たちを家に招き入れてくれた。いつものように定型の挨拶を交わす。「元気か?」「元気だ、君は元気か?」「僕は元気だ」。同じようなやりとりをオロモ語で数回繰り返す。しかし、いつもの快活な様子ではない。
ひと通り挨拶が終わったあと、「元気に見えないけど、どうした?」と拙いオロモ語で聞くと、「今日は少し調子が悪い、でも元気だ」とブーシェは答えた。「病気かな?風邪?」と聞き直すと、何の躊躇いもなく「HIVポジティブって知っているか?」と答えた。続けて「俺は昔、街のブンナベットで女の子と沢山遊んだから、この病気をもらった」と何でも知りたがる調査者の私に、簡潔なオロモ語で説明しれくれた。私は思わずお酒を誘いにきたのも忘れ、頭が真っ白になると同時に、自分が病気におかされたかのような絶望的な気分に襲われて、黙りこんでしまった。そんな私の心情を悟ったのか、ブーシェは「たまに調子は悪くなるが、死なない、薬もあるし、もらえるから」と私を気遣うように説明してくれた。この日はお酒を誘うのを断念し、ムティックと共に家を出た。道中彼にその事実を知っていたかと尋ねると、「村の人はみんな知っているよ」と答えた。さらに、ブーシェの奥さんもHIVポジティブなのかと尋ねてみると、「僕は知らないが、彼女は薬をもらっていないみたいだよ」とだけ教えてくれた。

 2009年の5月、ブーシェと出会ってからおよそ2年が経ち、ようやく、念願の研究テーマである牛耕を調査することになった。ブーシェは相変わらずの陽気な調子で、「うちの畑も耕しにこい、お前の家の牛耕以外も見る必要があるだろう」と誘ってくれた。牛耕は21組の去勢牛のペアが基本で畑を耕す。私のお世話になっているバルチャ家は去勢牛を42組もつ。去勢牛を1頭しかもたないブーシェの世帯は、どのように耕起作業を組み、畑を耕すのか。調べるには絶好の機会であると思い、彼の家の牛耕に1度だけ参加させてもらった。
ブーシェは自分と同じく去勢牛を1頭しかもたない隣家からウシをかり、ペアを作って耕起作業を行った。通常このような場合はウシだけを近隣世帯から借りるのだが、近隣世帯の人も彼のウシと共に畑を耕しにきていた。私がその隣人にいつも彼の畑を耕すのかと質問したところ、体調の悪い時はブーシェだけでは耕しきれないので、地域の人々が交代で助けあうとの答えだった。その日のブーシェは、いつもの陽気な様子で「代わってくれ」と隣人に遠慮なく甘えながらも、自分のできる範囲で畑を耕していた。観察者の私にも積極的に労働力としての協力をもとめ、ブーシェ流の牛耕指導をしてもらった。
 ブーシェの畑を耕した数日後の午後、バルチャ家とブーシェとの間で「いざこざ」が起きた。ブーシェが、牧童の不注意でバルチャ家のウシが彼の畑を荒らしたと怒鳴りこんできたのである。牧童は、ギリギリのところで食い止めたし、事実畑は荒れていないだろうと主張する。ムティックも牧童の主張を支持したがお互いの意見が食い違い、しまいにはムティックとブーシェは怒鳴りあいながら30分近くも口論をした。いつも陽気で優しいブーシェが初めて見せた殺気立った態度に私は驚きを隠せなかった。翌日私は、一人でブーシェのところを訪れた。彼はいつものような陽気で優しい様子で、昨日の問題はすでに解決したかのように私に振舞った。彼の顔をよくながめてみると、2年前よりも若干痩せこけているのに気がついた。タバコを淡々とふかしながら語るその仕草は印象的だった。彼が喫煙するのを見たのはこれが初めてだったからである。
 
その事件から1年後の20105月、私が前回の調査で日本に帰国した後にもっと大変な事件が起きていたことを村につくなり知った。ブーシェが調査村からいなくなっていたのである。加えて、バルチャ家のムティックとその兄アバラもいなくなっていた。ことの発端は私が前回の調査で村を去ってから3ヶ月後のある昼間におこった事件だったという。一部始終を見ていた人によると、ブーシェが昼間から酔った様子で、アバラの名前を呼びながらバルチャさん宅の前に仁王立ちしていたという。アバラが出てくると、突然隠し持っていた鉄の釘でアバラの目を狙って襲いかかったという。アバラの片目は潰れた。その時近くにいたムティックは、目を負傷したアバラと共に反撃にでて、ブーシェにアゴの骨と鼻の骨、歯の骨を折る重症を負わせた。この事件で、お互いに心身ともに深い傷を負っただけではなく、喧嘩両成敗の結果、ブーシェは懲役2年、釘を刺されたアバラも懲役1年、ムティックも懲役1年の判決をうけ刑務所に入れられることとなってしまった。
 私はそのころのブーシェの様子を複数の人から聞きとった。変わったことといえば、酒をよく飲むようになり、タバコも多く吸うようになっていたことだという。酒場では、色々な人と喧嘩をよく起こしていたらしい。以前の陽気な彼からは想像もつかないほどの荒れっぷりだったという。1年前の、放牧時のミスをめぐる激しい口論が頭によぎる。私は、ムティックとアバラ、そしてブーシェに会うために刑務所へ足を運んだ。アバラは片目が潰れてしまい、もとの輪郭はない。ひどく落ち込んでいるのか言葉数も少ない。ブーシェの怪我は治癒したようであったが、以前のような陽気さはなく、さらにやせ細っていて別人のように感じた。彼は何も語ろうとしなかった。ただ私が来てくれたことに対して笑顔をみせてくれただけであった。
 私は、この事件が個人間だけの問題ではおさまらず、今まで協力しあっていた世帯間の関係の悪化にまで繋がるのではないかと危惧した。しかしその予想は覆された。バルチャさんの家族は1人残されたブーシェの奥さんを気遣うように、さまざまな手助けをしていた。とくに、男性にしかできない農作業を手伝うなど、男手のいなくなった彼女のくらしを気遣って、頻繁に家を訪れていた。当初、私にはそのような行動がひどく奇妙なものに思えた。自分の家族に一生残る傷を負わせた、恨みすら抱きかねない人の世帯を助けることなど、理解に苦しんだ。
しばらくして、バルチャさんの妻からこんな言葉を聞いた。「ブーシェがしたことは悪いことだ。皆が刑務所に入るのも残念なことだ。しかし、この問題は個人のことだけではなく、我々の地域の問題である。だから、今、地域で苦労しているブーシェの妻を助ける。困った時は助けあうことが大切なのだよ」。もちろんバルチャ家には、「ブーシェを殺してやりたい」といった発言をするものもいる。しかし、私は上記のことばから、人々がこの問題を個人の責任だけに帰してしまうのではなく、地域全体の問題と捉えたうえで、皆でその問題から生じる損失を共に補い、協力しながらそれを乗り越えようとする術を探っていることに気づかされた。私自身もこの仕組に加わることでさらに「それでも助けあう」ことについて理解を深められないかと考えた。
 働き盛りの男3人が服役中であるため、牛耕シーズンのこの時期には労働力が不足するという事態がおきた。私は調査をかねつつも、畑を耕すことで協力できないかと思い、ムティックやアバラ、ブーシェの代打として畑を耕した。まだまだ未熟な私に彼らほどの十分な仕事ができたとは思えないが、私はこの体を使った手助けを通じて、地域の牛耕技術をより詳細に理解することができるようになった。それに加えて私自身が日々牛耕をすることで、「助ける」という感覚で畑を耕すのは地域の文脈ではなじまず、「助けあうのがあたりまえ」と考えると理解できる部分があることに気がついた。そのきっかけは、街で見知らぬ人と会話しているなかで「外人がよく農民を助けるために耕すね」と言われたとき違和感を感じ「違う、助けあうのはあたりまえだから」と反射的に答えた経験にあった。今思うと地域の人々の考え方や振る舞いを体全体で理解しようとするなかでたどり着いた私の一つの潜在的な答えが浮き彫りになった瞬間だったと思う。
帰国間際、ブーシェやムティックにお別れをいうために刑務所に訪れた。ブーシェは私が彼の畑を耕したのを聞いたのか、「今度は一緒に畑を耕そう」と最後にぼそっと言った。この言葉から私は、現状を乗り越え再び地域の未来を背負っていく若い担い手の一人に彼が更生していく可能性を、感じ取ることができた。
 
何がブーシェをこのような事件に追いやったのか、私にはその本当の動機はいまだにわからない。ブーシェが一生取り返しの付かない傷をアバラに追わせてしまった罪も重い。アバラのその苦痛は計り知れないし、様々な人に悲しみをもたらす事件になったのは事実である。けれども個人の問題に帰せず地域全体の損失ととらえ、人々が「助けあい」で問題をのりこえようとする姿を垣間見ることができた。私が当初抱いたなぜ「それでも助けあう」のか、という疑問は、バルチャさんの妻の言葉や、牛耕の実践、街の人との会話を通じて、「助けあうのがあたりまえ」と解釈するに至った。助け合いの仕組みをどのように理解したらいいのかという私の問に対しまだ答えは見いだせていないのだが、この事例を通じて、問題を地域で共有し、その損失を出来る範囲の余力をあたりまえに分け合うことで対処していくことの強さを確認したと思う。
だからこそ、どうして「自分はHIVポジティブだ」と何の躊躇もなく振る舞える、前向きで陽気なブーシェの抱える不満や不安を、事件が起きる前に汲み取り分配し解消することができなかったのかとも思ってしまう。私は事件の背景には、一生逃れることのできないHIVと上手につきあいきれていない彼のジレンマが少なからず関連していたのではないかと推測する。ブーシェの奥さんも現在HIVポジティブのため薬を飲んでいるのを私は目撃した。この病気の問題に対しても全面的に地域の「あたりまえに助けあう」力で、取り組んでいってもらうことを切に願う。


(たなか としかず 京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)

2014年4月11日金曜日

どくたら(Dr.)


今から18年前エチオピアで「ドクター」というものをはじめて知った。

1996年3月末、私は逞しく生きるエチオピアの人びとと出会った。首都、アディスアベバから西南130キロほどいったウォルキッテという街から入った農村で、私は農民に手をひかれ、畑をみせてもらっていた。日本でみたことのない作物、土の匂い。全てが新鮮だった。私は、この人たちと寄り添ってなにかをしたい。直観的にそう思った。

私はいったい何ができるのだろう。

ウォルキッテの農村に住み込みながら、家畜の診療をおこなっていた1人の日本人獣医師「野田さん」と出会った。
野田さんは彼らの生活の基盤として欠かすことができない、様々な役割を担う「ウシ」を護る「家畜診療」の仕事を、村に住み込みながらおこなっていた。
畑を耕す、牛耕用のウシは、彼らの生活を支える重要なものであることを、その時に知った。野田さんは、エチオピアの人と寄り添いながら、彼らの大切にしているものを一緒に守りつづける、そんな仕事をしているように思えた。
「ドクターノダ、ドクターノダ」エチオピアの農村の人びとに慕われ、ともに生きる、野田さんという大人に、13歳の私は強く憧れた。

「エチオピアに行くことが目標になっていはいけません、エチオピアで何をするか、考え行動することが重要です。」

憧れの野田さんからもらったこの言葉で、自分のできることは何か、模索する日々が始まった。想いを叶えるためにまずは「私が」学ばないといけない、そんな風に旅の中で考えるようになった。
医者や獣医の「ドクター(医師)」とはべつに「ドクター(博士号)」というものもあることを知った。この国に寄り添って仕事をするには「ドクター」になることは重要であるとを子供ながらに学んだ。まずは野田さんのような「獣医(ドクター)」を目指そうと決意した。13歳のときだった。

様々な人びととの出会いや関係のなかで、「エチオピアの人びとに寄り添って働きたい」という想いは、ゆっくりと育てられてきた。

「ドクター(獣医)」になるという夢は、はかなくも散ってしまったけれども、大学時代は「農」と真剣に向き合う切磋琢磨できる仲間達に恵まれた。ウシの飼養管理や農家の人びととの関わり方も実習を通して学んできた。7年前に大学院に進学し、「アフリカ地域研究」で、まずは「ドクター(博士号)」を目指す研究生活がはじまった。13歳の時に見たエチオピアの農業を、ウシを使って耕す「人びと」を、正しく、深く、理解することから始めたい。フィールドワークに基づくエチオピアの牛耕の研究のスタートだった。はじめて訪れたウォルキッテの街から10キロ首都よりの街、ウォリソ(ギオン)の農村に縁があり調査をはじめた。まずは、そこに暮らす人びとの生活を、全身を使って、時間をかけて正しく理解する、当時の決意を今でも鮮明に思い出す。

憧れの野田さんのように、農村で人びとともに寝食をし、対話を繰り返し、寄り添いながら学ぶ、11年思い描いていた自分は現実のものとなっていた。それにも関わらずエチオピアの農村で自分は何をやっているんだろうという思いを抱くことがあった。夢を抱き、遠いアフリカまでやってきて、苦労のすえ村の人びとに受けれてもらい、言葉を学びながら、生活を手とり足取り学ぶ。それは私自身が希望し、多くの困難を乗り越えながら、ようやくはじめたフィールドワークだったはずなのに。

なかなか理解できない彼らの行動や、自分のわがままなふるまいで迷惑をかけてしまっている申し訳なさで悔しい思いをした。高熱で魘され、虫さされによる痒みで発狂した日々もあった。何かをつかもうとしても、空気ばかり掴んでいるようで、何も形にならない苦しい日が続いた。知識は少しつづ蓄えられていっても、解るということの厳しさ、難しさを全面的に突きつけられた。それでも、あたたかい人びとに支えられ、エチオピア農村の人びととの一緒の時間を積み重ねることができ、そのなかで何かを浮き彫りにし、理解できたときの喜びは言葉にできないほどおおきなものだった。今ふりかえるとフィールドのワークのはじまりとはそのような、苦しみや喜びを乗り越えていく日々だったように思う。

毎年のように日本とエチオピアを調査のために往復し、言葉もしだいに話せるようになり、人びととの付き合いがさらに深まってくると、日本にいるときの自分との違和感を感じるようになる。自分が何者か、よくわからなくなりはじめる。エチオピアで価値観を揺すぶられる強烈な経験を重ね、苦しみながらも、受け入れ、咀嚼し、自分のものにしていくにつれて、新たな自分は形成され、今度は自分が育ってきた社会の生活に疑問が生まれ、いろいろなことがさらによくわからなくなっていく。2つの世界で生きることは、自分の新たなる価値観の創造へ導く力をもっている。それと同時にあらたなる葛藤の世界へ自分を飛び込ます力にもなる。それだけではない。2つの世界のもつ厳しい現実に迫られる。目の前につきつけられる、大きな現実に直面したとき、何もできない自分の未熟さに、どうしようもなく、つぶされそうになることがある。

そんな時もエチオピアの懐は深い。私の気持ちをまっすぐ受け止めてくれる人びとがいる。
「心配ない、できるよ、ゆっくりゆっくり」
性急な答えは求めない、ゆっくりと着実に厳しい状況にも耐えながら生きていく姿勢を学んだ。たんたんと耕すように。
自分の足りない考えを、誤った思考を正すように、心を癒してくれるように、逞しく生きる人びとは、上手に生きる知恵や構えを共有してくれた。

共有の潤滑油ともいえる、「酒」が調査地にはある。
時には奢ってもらい、私も奢り、酒を通じた時間も共有してきた。
酒を瓶で購入すると、年長者に捧げ、まずは祝福の言葉をかけてもらう。

かみさまのご加護がありますように。
偉大な人間になりますように。
王のような寛大な男になりますように。
沢山の財があたえられますように。
健康があたえられますように。
平和な家庭があたえられますように。

祝福の言葉は何度となく聞いてきたが、私に贈られるその言葉には、日頃聞きなれない特別な言い回しがあることに気がついた。

たくさんの知恵がさずけられますように。
人びとをなおせる『どくたら』になりますように。

私には『どくたら』ということばは、医者という文脈で使われる言葉という認識があった。祝福をくれるエチオピアの父は私が病気などを治す「どくたら(医者)」になるために調査にきていると理解しているのではないかと心配になりはじめた。ある日、父と、相棒のムティックと酒を飲みながら、私が目指している「どくたら」は病気を治す医者ではいことを知っているかという質問をしてみた。

「とし、お前が目指している「どくたら」は、学び合いのなかで知恵を蓄え、人の誤った考えを直したり、癒やしたり、人の問題を一緒に解決できるような「どくたら」だろう? 医者のどくたらとは違う「どくたら(博士)」ということは、わかっているよ。私達の文化のジャルサ(尊敬される知恵と解決力をもつ年長者)みたいな人間だろう ははは」

エチオピアの父(ジャルサ)は、私が目指す「どくたら」をしっかり理解してくれていた。

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『どくたら(博士)』になるための、学位申請論文は「アフリカ在来犂農耕の地域研究ーエチオピア中央高原に暮らすオロモの人びとによる牛耕の潜在力」として提出し審査をうけ、平成26年3月24日に博士(地域研究)の学位を正式に授与されました。

現地点では幼いころから思い描いていた、野田さんのような「ドクター」は未だに憧れで、私が尊敬するエチオピアの年長者(ジャルサ)がいうような、「人びとの考えを直したり、癒やしたり、人びとの問題によりそって解決できる」ような『どくたら(博士)』にもほど遠く、研究者としても、駆け出しの未熟者です。
彼らが大切にしているものをしっかり理解できているか、守ることができているかという不安もさることながら、さまざまな葛藤や煩悩と折り合いをつけ、当面の状況を生き抜けるのに精一杯の日々というのが現実です。


しかし、新たなスタートとして、ここからも、そして今までみたいにこれからも、あせらず、こつこつ、ねばってやりぬくという姿勢を大切にすすんでいきたいと思っています。
 

そして私の理想である彼らに寄り添い、お互いの「より良い生活」というものの「創造」を目指して、共に考え、行動していく、『どくたら』になれるように精進してまいります。
 

今後はエチオピアのみならず、日本にいる私を支えてくださる身の回りの人たちにも、寄り添いながら生きていければと思っています。今後ともみなさま、ご指導ご鞭撻のほど、どうぞよろしくお願い申し上げます。

これまでご声援ご協力いただいた全ての方々にこの場をかりて、感謝の気持ちを記します。全ての人のお名前をあげることはできませんが、私はおおくの人びとに支えながらこれまで研究をつづけてこれました。とくに指導教授の重田眞義先生にはフィールドワークから論文完成のみならず、研究環境を十分に整えていただき、温かくも守っていただき、励ましていただきました。記して感謝の意を示したいと思います。博士論文の副査をつとめてくださりました、太田至先生、大山修一先生にもお礼を申し上げたいと思います。エチオピア研究の先輩方には大変お世話になりました。とくに西真如さんと川瀬慈さんには、いつも研究のことのみならずさまざまな場面で支えてもらいました。そして、博士になるにあたりとくに心の支えになったのは、調査地に生きる人びとの姿でした。エチオピアでの父バルチャ・フィーテ、母イルフボーダナ、ムティック、トレサの献身的な協力がなければ、この論文は完成しませんでした。深く感謝いたします。最後にいつも温かく励ましてくれる祖母、いつも私のやりたいことを全力で応援し続けてくれる母と、大学院在世中に亡くなった父へあらためて感謝の気持ちを記しておくことをお許しください。

2014年3月31日 
たなか としかず